『Summer Pockets』(サマポケ)の考察や感想(ネタバレ)

Summer Pockets 初回限定版 

 この夏、Keyの最新作『Summer Pockets』が発売された。素晴らしい作品であったので、ここに感想や考えたことなどを記そうと思う。

 

 結論を先取りすれば、『Summer Pockets』(以降、『サマポケ』とする)はプレイヤーがキャラクターを救おうとする童話であると同時にキャラクターがプレイヤーを救おうとする童話である。これから、その事についての考察を行なっていこうと思う。その為の補助線として、哲学者である東浩紀の『クォンタム・ファミリーズ』、『「いき」の構造』で有名な九鬼周造の『時間論』について触れていく。また、『サマポケ』の各種ルートについても触れていきたい。

 では、まず、軽く概略だけ述べておく。物語は心に傷を負った主人公である鷹原羽入里が祖母の遺品整理の為に、瀬戸内海に浮かぶ鳥白島に夏休みを利用して訪れるところから始まる。そこで出会った人々の交流を通じて、主人公は、自らの傷と向き合い、立ち向かう決意をするというのが簡単な概略だ。本作は製作者が「ノスタルジー」をキーワードにしているとの言葉の通り、僕たちが子供のころの「ノスタルジー」なもので溢れている。MDから始まって、ミニ四駆ハイパーヨーヨー、『あいのり』、『幽☆遊☆白書』の霊丸(作中では「れいだん」になっている)、スイカバー、ポリンキー(作中ではパリンキー)、水鉄砲などである。それもそのはずで、ALKA編で作品の舞台が2000年であることが分かる。つまり、この作品は2000年に『サマポケ』の登場人物の年齢と同じ17歳~18歳であった年齢層をメインのターゲットにしていると思われる。もちろん、Twitterなどで感想を述べているプレイヤーの中には、現在10代や20代の人たちが数多くいることも知っているし、実際、10代や20代の人たちがプレイしても、充分に楽しめる内容だとは思う。だが、やはり一番、この作品が突き刺さるのは、2000年当時、10代後半から20代前半の人たちだと思う。このことが、この作品の核心につながっていく。というのは、2000年に17~18歳だった人たちというのは、『サマポケ』が発売された2018年では、35~36歳である。
 ここで思いだされるのは、村上春樹の「35歳問題」である。村上は『回転木馬のデッド・ヒート』の中の『プールサイド』で「35歳」が「人生の折り返し点」であると記している(ちなみに、『プールサイド』の主人公も羽衣里と同じく、長年、水泳選手であった)。そう、『サマポケ』は「35歳問題」を主題にしたゲームなのである。ここで冒頭で述べた東の『クォンタム・ファミリーズ』(以降、『QF』とする)が関わってくる。なぜなら、『QF』は、『サマポケ』に先んじて、「35歳問題」を主題にした作品であるからだ。ちなみに、『QF』によれば、「35歳問題」についてこのように書いている。

ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけでなく、決してなしとげなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも満たされている。

        中略

直接法過去と直接法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和がそのぶん増えていく。

 そして、その両者のバランスは、おそらく三十五歳あたりで逆転するのだ。

東浩紀クォンタム・ファミリーズ』(28頁)

 

 これが、『QF』に書かれている「35歳問題」だ。要するに35歳を過ぎると、ありえたかもしれない過去の亡霊に取り憑かれてしまうのだ。『QF』の著者である東はKey作品を高く評価しており、『QF』の中にも、Key作品の主要キャラクターである往人や風子、渚、理樹などの名前が使われた登場人物が数多く出てくるので、『サマポケ』の制作者が『QF』を知っていて、影響を受けていたとしても、おかしくないだろう。また、『サマポケ』の舞台である2000年というと、ちょうど『AIR』が発売された年でもある。その『AIR』は東たちが批評の対象としたことで、不朽の名作として記憶されることになった。しかし、そのことで、必ずKeyの後続作品は『AIR』と比較されることにもなった。今回の『サマポケ』も例外ではない。製作者サイドもそれは重々、承知の上で、それは関係者のコメントからも窺い知れる。そのため、満を期して発売された『サマポケ』は『AIR』を超えるために、同じく『AIR』や数多くのKey作品を参照して書かれた『QF』の主題を取り入れているのだ。『QF』は平行世界の子供に復讐されたり、救われたりする物語であった。これは、『AIR』では主人公や僕たちプレイヤーが観鈴というキャラクターを救いたいけど、救えないという事を主題として扱い、プレイヤーの不能感を前景化していたのに対して、『QF』では、さらに一歩、進んで、そのような不能な主人公を平行世界の子供に救われるという物語に仕立てあげている。この平行世界の子供というのは、今、現実の世界に存在しないという点でキャラクターと同じことであり、『QF』は、主人公が存在しないはずのキャラクターに翻弄されるという話なのである。まさに「35歳問題」の過去の亡霊に取り憑かれることと同義である。これを『サマポケ』は取り入れている。ただ、単に取り入れるだけでなく、『AIR』から続く、キャラクターを救うという主題も残している。では、なぜ、『サマポケ』はプレイヤーがキャラクターを救おうとする童話であると同時にキャラクターがプレイヤーを救おうとする童話であるかについて、もう少し詳細に見ていきたい。

 『「いき」の構造』で知られている九鬼周造は、『時間論』のなかで、過去から未来に流れる水平的な時間軸と繰り返し続ける円環的な垂直の時間軸が交わるところが、「永遠の今」であると述べているが、これが『サマポケ』にも当てはまる。ALKA編でメインヒロインである白羽(しろは)は主人公である羽衣里の子供を授かることになる。しかし、白羽は自分の生まれてくる子供の羽未(うみ)とは、自らの死により、会えないことを「視て」しまう(ここで「見る」ではなくて「視線」の「視る」になっていることに注目してもらいたい)。そして、その時、こちらに目線を向け、未来の羽未と目が合う。普通に考えれば、あり得ないことだが、過去に戻ることの出来る羽未の能力によりそれが可能になる。その時、僕たちの画面には羽来は映し出されず、羽未のセリフのみ表示される。そう、ここで、僕たちプレイヤーはキャラクターである羽未と同一化されるのだ。なぜなら、キャラクターである白羽は僕たちの現在からすれば過去の存在でしかありえず、同様にプレイヤーである僕たちはキャラクターの現在からすれば、未来の存在でしかあり得ないからだ。だから、未来の存在である羽未と僕たちは同一化することになる。過去のキャラクターである白羽と未来のキャラクターである羽未と同一化した僕たちが目が合うことで、九鬼のいう「永遠の今」が生まれる。そして、それはPocket編で、鏡子が言うような「過去も未来もない」捉われた時間なのである。このように『サマポケ』では、2000年代にさかんに扱われたループものの系譜に位置することになる。そして、白羽は自分が死ぬことで、未来の羽未が白羽に会いに過去へ何度も戻ることを知り、羽未に過去を戻る能力が発現しないように奔走する。そう、ここでキャラクターである白羽が娘の羽未を救おうとするのは、僕たちプレイヤーを救おうとすることと同義である。そして、Pocket編では、娘の羽未が他の七影蝶の力をかりて七海という仮の姿をまとい、子供時代の白羽に会いにいく。そこで、羽未は自らの存在を消すことで、将来、白羽が羽衣里と出会い、羽未を産むことで死んでしまうという運命から解放する。さきほど述べた通り、僕たちプレイヤーは未来の羽未と同一化している。だから、羽未と同じく、僕たちプレイヤーも白羽というキャラクターを救うことになるのだ。今、僕たちは電車の隣に座っている人間より、存在しないはずのキャラクターに実存を感じる世の中に生きている。それは最近、哲学界隈で話題になっている「オブジェクト指向存在論」などをみれば、わかる(これについては後ほど、詳しく触れていく)。このように『サマポケ』では、僕たちプレイヤーがキャラクターを視るように、キャラクターもプレイヤーを視ている。だから、『サマポケ』では、プレイヤーがキャラクターを救おうとすると同時にキャラクターがプレイヤーを救おうとしているのだ。では、次に僕が冒頭で『サマポケ』を物語ではなく、童話としたのか。その事にみていく。 

 なぜ『サマポケ』は童話なのか。そのヒントは主題歌にある。『サマポケ』の主題歌のタイトルは『アルカテイル』である。『アルカテイル』の「テイル」には物語、童話などの意味がある。では、なぜ物語ではなく、童話なのか。なぜなら、『サマポケ』では、絵本のような子供向けの話が、このゲームではキーとなっているからだ。それは、鴎ルートの絵本や、ALKA編の羽未の絵本や絵日記がキーとなっていることからわかる。そのように考えると、『サマポケ』は物語というよりは、やはり「童話」なのである。それも前述したように「35歳問題」を扱った大人のための「童話」なのである。また、『サマポケ』は「七影蝶」を巡るゲームである。「七影蝶」はこのゲームのキーで、重要な場面で必ず出現する。「七影蝶」は人の記憶の残留思念の様なものであり、夏の間だけ鳥白島に集まってくるという。そのような不思議な蝶という意味では、蝶というより、「妖精」のようなものと考える方がしっくりくるかもしれない。そのように考えると『サマポケ』は童話やおとぎ話しを意味する『フェアリーテイル』と言える(あまり関係ないかもしれないが、紬ルートで鴎が羽衣里のことを「フェアリー」と呼ぶ場面がある)。また、別の見方をすると、『サマポケ』は「ある夏の童話」あるいは「不在の痕跡」とも言えるかもしれない。「アルカ」の「カ」は夏(なつ)の音読みである。それを当てはめると「ある夏の童話」となる。これは、『サマポケ』が夏をテーマにしていることからも納得できるだろう。
 次に『サマポケ』は「不在の痕跡」ということだが、ネットで『アルカテイル』は「歩き続ける」ことを歌詞にしていることから、「アル"い"テイル」(歩いている)、「アルカ"ない"」(歩かない)という意味を含んでいるではないかと記してあるのがあった。そして、足した「""」をつなぎ合わせると、「"いない"」となると書いてあったが*1、それをもとに考えると『サマポケ』は「いないものを巡る話」であると考えられる。もちろん、「いない」のは、母親である白羽を死の運命から救うために、未来から過去に戻り、自らの存在を消すことによって白羽を救った娘の羽未のことである。また、「テイル」には、「しっぽ」という意味もある。それらを、つなぎ合わせると『アルカテイル』は「いないものの尻尾」、つまり羽未という「いないものの痕跡」と考えられる。その意味で、『サマポケ』は羽未という未来の娘が母親を救うために、自らの存在を消したことによる「不在の痕跡」を巡る作品だともいえる。そのように『アルカテイル』には、二重、三重の意味が込められているが、前述したように『サマポケ』は「35歳問題」を扱った大人のための「童話」なのである。その意味で、これまでみてきたように、『サマポケ』はプレイヤーがキャラクターを救おうとする童話であると同時にキャラクターがプレイヤーを救おうとする童話であるといえるのではないだろうか。

 では、最後に『サマポケ』はプレイヤーがキャラクターを救おうとする童話であると同時にキャラクターがプレイヤーを救おうとする童話であるとしたが、最終的にキャラクターやプレイヤーは救われたのだろうか。その答えは分からない。最後のPocket編で羽未は自らの存在を消すことにより、白羽を死の運命から解放した。その結果、羽衣里が鳥白島に訪れても、白羽と羽衣里は特に交わることもなく、夏休みが過ぎていく。そして、夏休みの最後、羽衣里は島を去ろうとフェリーに乗り込む。羽未の願いは叶ったわけだ。しかし、フェリーの中で漁港で遠くを見つめている白羽を見かけた羽衣里はわけもわからず、フェリーから飛び降りてしまう。そして、白羽に声をかけるところで終わりを迎える。これはハッピーエンドなのか、バッドエンドなのか。それは分からない。ただ、これだけは言える。羽衣里と白羽は過去のしがらみとか、決まっている未来とか関係なしに、自分たちの意志で「今」を選びとったのだと。例え、それが白羽が死んでしまい、娘の羽未が過去に何度も戻り、記憶を失くしていく未来につながる「今」だったとしても。彼らは、選んだのだ。「今」を思う存分、楽しむことを。それは、先述した九鬼の「永遠の今」ともつながってくる。九鬼はニーチェと同じように、同じように繰り返す時間だとしても、それを肯定して生きることが本当の生を生きることにつながるとした。そして、それは羽衣里と白羽の決断ともつながってくる。彼らはそれが善意の意志だとしても他者の意志で未来を決められることを拒み、仮に悲惨な未来が待ち構えていようとも、自分たちの意志で未来を決めていくことを選んだのだ。そう、娘の羽未にもう一度、会うために。それが、『サマポケ』のいう「眩しさだけは、忘れなかった」という意味だ。これは、裏返せば、プレイヤーの意志から離れて、キャラクターとしての生を全うするという事でもある。プレイヤーと同一化した羽未によって救われた人生を生きることではなく、ゲームという閉ざされた空間を自らの意志で切り開いて、生きていくというキャラクターたちの固い意志表明でもある。そして、自らの意志で羽未を、僕たちプレイヤーを救おうとする。
 では、本当に最後にもう一度、まとめると、プレイヤーと同一化した羽未は白羽というキャラクターを救うことに成功した。しかし、それは羽未やプレイヤーの不在を条件としており、キャラクターを救えたとしても、それはキャラクターの意志ではない。そうではなくて、『サマポケ』では、キャラクターもプレイヤーも救われるような世界をプレイヤーが望むと同様にキャラクターも望んだ。例え、それが望んだ結果にならなくとも、それをキャラクターが自らの意志で選んだということ自体に意味があるのでないか。そして、「35歳問題」という過去の亡霊を抱えたプレイヤーは過去の亡霊であるキャラクターを救おうとし、キャラクターは自らの意志をもって未来のプレイヤーを救おうとする。だから、『サマポケ』はプレイヤーがキャラクターを救おうとする童話であると同時にキャラクターがプレイヤーを救おうとする童話なのである。

*1

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13192622218

 

 以上が本論だが、ここからは各ルートについてみていきながら、本論で触れられなかった箇所についてもみていきたい。

 

〇しろはルート

 悪い未来を視てしまうという能力のため、人と関わらないようにしているというメインヒロインのしろはルート。実はこの未来を視る能力はALKA編で未来ではなく、うみとおなじく心だけ過去に戻る能力だったことが分かる。それはさておき、このしろはに人と関わり、楽しい夏休みを過ごしてもらうというのが、このルートのクリアの鍵となる。そのため、話は島民の他の同級生との絆を取り戻すのがメインとなっている。そして、しろはが主人公の羽衣里と打ち解けてきた頃、しろはは夏鳥の儀がある夏祭りで海に溺れて命を落とす未来を見たことを羽衣里に明かす。それを聞かされた羽入里は二人で解決しようとはせず、しろはの同級生たちに相談をもちかける。これは、『ひぐらしのなく頃に』やKey作品の最近の特徴である横のつながりを大切にするという傾向と一致する。初期の『AIR』やセカイ系作品と違い、「きみとぼく」で完結することなく、友人などの横のつながりで問題を解決していくというスタイルは疑似家族的な問題系である。そのようにして、団結した羽衣里たちは実際にしろはが海に流された子供を助けるために溺れるという事態に遭遇しながらも、無事、しろはを助けることに成功する。だが、羽衣里は溺れたしろはを助ける際、しろはがまるで誰かが乗り移ったかのように表情を変え、「私達は時の編み人」、「いくら求めても無理だよ」、「この夏に巡り逢えたとしても」、「私達はただ編み続ける」という言葉を放つのを聞く。僕はこの時、今年、公開された岡田麿里の『さよならの朝に約束の花をかざろう』を思い出した。あの映画では「ヒビオル」という布に日々の出来事を織るという、何千年も生きる種族のことを描いていた。それは自分たちは歴史には関わることが出来ず、ただ歴史を記録することのみが可能なのだという、ある意味、諦観を前提とした世界の物語であった。

    話を戻そう。この「時の編み人」とは誰なのか。なぜ、「私」ではなく「私達」なのか。その答えは個別ルート後のALKA編、Pocket編でおぼろげながら見えてくるのだが、結局、明確な答えが得ることが出来ないまま終わってしまう。ただ、『サマポケ』が「時間」というテーマに重きを置いていることはわかる。さて、そのようなしろはルートでは、最後に羽衣里としろはが結ばれるところで終わりを迎える。そして、それは後のALKA編、Pocket編の布石となっていく。

 

〇蒼ルート

 山の祭事を司る空門家の巫女である蒼のルート。個人的には蒼推しということもあるが、それを抜いても、一番いいルートだと思う。なぜなら、『サマポケ』全体に関わってくる「七影蝶」がメインに置かれたルートだからである。蒼は山の祭事として、夏の間だけ花を咲かせる迷い橘に、本論でも前述した人の記憶が蝶となった七影蝶を導く役目を果たしている。だが、蒼にはそれとは別に目的があった。それは、幼い頃に自分が原因となった事故で寝たきりになっている姉の藍の七影蝶を探し出し、藍を目覚めさせることであった。そのため、蒼は藍の記憶を探すために、本来、禁止されている七影蝶に触れ、他人の記憶をみていた。これが、よく蒼が昼寝していることにつながる。人間は睡眠のときに記憶の整理をしているというのは、よく知られているが、蒼は他人の記憶を自分に取り込む時に、その処理の分だけ睡眠を必要としていたため、よく昼寝をしていたのだ。だが、これが仇となる。羽衣里のおかげで藍の七影蝶を探し出し、藍を目覚めさせることに成功した蒼だったが、時すでに遅し。それまでに大量に触れた七影蝶の影響で長い眠りについてしまう。一週間後、目覚めた蒼は羽衣里に迷い橘に連れて行ってほしいと頼む。羽衣里におんぶをされている蒼の体からは次々と七影蝶が溢れ出していく。そして、枯れてしまった迷い橘についた時には、蒼は再び眠りについてしまう。その瞬間、一匹の七影蝶が溢れ出る。これまで一緒に七影蝶を探してきたペットのイナリが叫ぶのをみて、羽衣里はその七影蝶に触れる。それは、蒼の記憶だった。羽衣里との楽しい思い出の記憶。しかし、その蝶は空高く飛んでいってしまう。羽衣里や藍を残して。正直、ここで終わっても良かったと思う。しかし、今回の『サマポケ』は、全体的にきれいに終わるようにしてあると思う。蒼が眠りについた後、羽衣里はおそらく「蒼と同じことする」と言った藍と一緒に翌年の夏の間、蒼の七影蝶を探す。そして、蒼の七影蝶を見つけ出すことに成功する。記憶を取り戻した蒼は長い眠りから眼をさますところで終わりを迎える。
 だが、僕は少し、違和感を覚える。蒼の七影蝶を見つけたとして、どうやって見つけたのだろうか。仮に蒼と同じように七影蝶に触れて探していたとしたら、今度は羽衣里や藍が副作用で眠りについてしまわないだろうか。ゲームにそこまで整合性を求めるのは間違っているかもしれないが、ハッピーエンドで終わらせようとした結果、設定に無理が生じた感はある。ただ、例えば、『君の名は。』で最後、三葉と瀧が会わなかったことを考えると耐えられないように、蒼があのまま目覚めないことを想像すると耐えれないと思う。その意味では、いい終わり方だったと思う。

 

〇紬ルート

 個人的に、一番、感動したルート。ヒロインはドイツと日本のハーフである紬・ヴェンダース。しかし、本当は戦前に神隠しにあったとされる紬のぬいぐるみであることが話しが進むにつれ、分かっていく。ぬいぐるみがヒロインというのは、なかなか興味深い。このルートは一言でいえば、人間にとっての「もの」が人間に使われる「もの」としてではなく、単体の「もの」として主体性を獲得していく話である。これは、本論でも少し触れたが、哲学者のグレアム・ハーマンが唱える「オブジェクト指向存在論 Object Oriented Ontology」(以降、『OOO』とする)と限りなく近い。『OOO』というのは、簡単にいうとコップやペンなどの「もの」にも、独自の主体性を認めようとする議論のことである。その議論に紬ルートは連なっている。例えば、紬(ここでは、紬という時は基本的にぬいぐみの紬を指す)は、「自分自身を探しています」と言うのだが、これには、神隠しにあったとする本物の紬を探している意味と、本物の紬の代わりを務めている自分ではない自分、本物の紬の代わりとしてしか存在価値がない自分自身ではない、独立した自分自身を探しているという二重の意味が込められている。そして、重要なのは後者の方だ。僕たちはルートをすすめていくにつれて、紬が本物の紬ではないことが分かっていく。そして、紬が最初の方で言っていた「自分自身を探しています」という意味が、「本物の紬を探しています」ということを知る。しかし、それだけでない、紬自身も最初は気づいてなかっただろうが、紬は人間の紬の代わりの紬ではないぬいぐるみとして主体性をもった紬・ヴェンダースを探していたのだ。それは、紬の「やりたいことを探しています」という言葉からもわかる。本物の紬の代わりを務め、島の人たちに紬の事を忘れないようにしていたのだが、本物の紬を知っている人は誰もいなくなってしまい(ちなみに最後の一人というのは、羽衣里の祖母である)、やることがなくなってしまった。そこで、「やりたいことを探しています」となるわけである。だが、これまで自分の事について考えたことがなかった紬は何がやりたいことか分からない。そこで、灯台で一人で歌をうたったり、友達のぬいぐるみを集めたりしていたのだが、やりたいことは見つからない。しかし、羽衣里や静久と知り合い、徐々に自分のやりたいことを見つけていく。そこで、紬は自らの意志で羽衣里や静久とずっといたいと願うようになる。ここで興味深いのは、羽衣里と恋人になることだ。よく考えれば、人とぬいぐるみが恋人になるのだからおかしいといえば、おかしい。しかし、僕たちはキャラクターという人ではないものに、惹かれたり、恋したりするではないか。そう考えると、『サマポケ』の中で人とぬいぐるみが惹かれ合うのも、僕たちがアニメやゲームのキャラクターに惹かれるのも大差ないのではないだろうか。そして、それは前述した『OOO』の世界観と非常に近い。そう、紬ルートは冒頭で述べた通り、紬・ヴェンダースという神隠しにあった本物の紬の代わりを務めるぬいぐるみではなく、自立したぬいぐるみの紬・ヴェンダースという取り換え不可能なものになっていく話なのである。

 

〇鴎ルート

 10年前に約束した海賊船を探しに島にやってきたという鴎がヒロインのルート。だが、実は本当の鴎自身は海外の病院で眠り続けている。なので、『サマポケ』に出てくる鴎は生き霊みたいなものである。また、足が悪く、ゆっくりとしか歩けないが、周囲に悟られないよう、いつもスーツケースを引いている。
 本論で『サマポケ』は童話だと述べたが、このルートでの最大のポイントは絵本がキーとなっていることである。鴎は10年前に母親が自分をモデルにして書かれた『ひげ猫団の冒険』という絵本を読んで、感想をくれた子どもたちに10年後、絵本の中に登場する海賊船に招待するという返信を書いており、その約束を果たすために、この島にやってきたのだ。母親と協力して10年かけて、絵本の内容を本物にしようと努力してきたのだ。だが、持病が悪化して、寝たきりになってしまう。そして、七影蝶となって、島の近くの別荘に来た母親のスーツケースについてきたのだ。しかし、羽衣里と海賊船にしようとしていた帆船を見るまで、そのことを忘れていた。まるで、自らが絵本の書かれていることを経験してきたかのように、10年後の冒険仲間たちに会いに来たつもりになっていた。そして、それは鴎と一緒に冒険をした羽衣里も同じだった。経験した覚えがないのに、何度も既視感に捉われる。それもそのはず、羽衣里も幼かったころ、その絵本を読んで、鴎がモデルとなった主人公に初恋をし、感想の手紙を書いた一人であったのだ。このルートの興味深いところは、どこまでが現実でどこまでが虚構か分からなくなることだ。現実が虚構を侵食し、虚構が現実を侵食する世界。しかし、それは僕たちがそもそも、そのような世界に住んでいることを思い出せてくれるのではないだろうか。その事を鴎ルートは思い出させてくれる。
 さて、帆船をみて、自分が眠り続けていることを思い出した鴎は羽衣里の前から姿を消してしまう。さらに、交流のあった他の島の友人から鴎の記憶が消えてしまっていた。ここで、凡庸かもしれないが、僕はONE PIECEに出てくるヒルルクの「人は忘れられた時に死ぬのだ」という言葉を思い出した。 『サマポケ』では、蒼ルートのところで触れたが、「七影蝶」という人の記憶を宿した蝶がキーとなっており、「記憶」がテーマとなっている。その意味では、この鴎ルート、そして、後述するALKA編は、ヒルルクの言葉通りではないだろうか。
 ラスト、鴎の代わりに帆船を海賊船に仕立てた羽衣里は10年前に『ひげ猫団の冒険』を読んで手紙をくれた人を、島へ招待をしたところで終わりを迎える。その中には、『ひげ猫団の冒険』に出てきたひげ猫団の子供たちの声も聞こえる…。

 

〇ALKA編

 『サマポケ』の核心ルート。ここで僕たちはうみの言動が幼くなっていることに気付く。個別ルートでも、クリア数が増えるたびに言動が変わっていたが、ALKA編で明らかにうみの言動が幼くなっている(そのため、うみとの会話部分はスキップ出来ない)。それもそのはず、本論でも触れたが、うみは実は羽衣里としろはの未来の子供であり、しろはに会いに何度も過去に戻っており、その度に記憶を失っていたのだ。だから、ルートが進む度に言動が幼くなっていたのだ。ここで、僕たちは『サマポケ』の本当の主人公がうみであることを知ることになる。そして、話はうみが幼くなったことにより、自分に素直になり、羽衣里としろはと「家族ごっこ」をするようになる(本物の家族ではあるが、まだ羽衣里もしろはも知らないため、あくまでも「ごっこ」だ)。そして、三人は夏休みの思い出を増やしていく。ALKA編でキーとなるのは、本論でも『サマポケ』は童話であると述べたが、うみの絵本と絵日記だ。絵本はうみの話をもとに、羽衣里と鴎が作ったものだ。話の内容はこうだ。あるきれいな色の蝶がいた。蝶は旅を続けていた。そして、蝶は旅を続ける度に色を失くしていった。しかし、代わりに世界は色に満ちていった。そして、最後には蝶は眠りにつくという話だ。まさに、うみ自身のことそのままである。だが、重要なのは、ゲームの中では明かされないが、羽衣里がうみの話があまりも悲しいので、ラストになにかを付け加えたことである。何を付け加えたのであろうか。僕には分からない。でも、それは『サマポケ』自体に関わってくる内容だったのだろう。例えば、本当のラスト、羽衣里がうみの事を忘れていたのにも関わらず、もう一度、うみに会うことを決断することに関わってくるような。
 話を戻そう。このような絵本と並んで重要なのが、うみの絵日記だ。その絵日記は書いたことを羽衣里が実現してくれるという魔法の絵日記だ。しかし、うみは絵日記に未来の天気まで書いて、それがことごとく当たってしまう。不信に思う羽衣里としろは。「明日も知っていたの?」と尋ねるしろはに「うん」と答えるうみ。それを聞いたとたん、しろはは自身の未来が視えることを思い出し、うみを拒否して去ってしまう。残された羽衣里はうみから、うみが未来から来たことを告げられる。そして、羽衣里は自分としろはがうみの父親と母親だということを知る。そして、未来でしろはが死に、羽衣里は育児放棄をすることも。そして、うみはしろはが死んでしまったがために、しろはに会う為に過去に戻ってきたことも。それを聞いた羽衣里はしろはを説得し、もう一度、家族ごっこを始める。しかし、うみと関係のうすい人物から、うみの記憶が失われていく。そして、ついに羽衣里としろはまでも。翌朝、目が覚めたときには、うみの姿は消えてしまう。しかし、消える前、誰かと花火を見に行くことを約束をしていたことだけは覚えており、二人で花火を見に向かう。そこでは、二人はなにかモヤモヤしたものを抱えながら、花火を眺める。そして、二人が約束をしていたのがうみだと思い出したその瞬間、再びうみが二人の間に現れる。うみを見て、泣き崩れる羽衣里としろはだが、そんな羽衣里としろはを見て、うみは「この夏休みは楽しかった」、「ありがとう」、「ちょっとだけばいばい…」といって、花火が終わるのと同時に消えてしまう。それと同時に羽衣里としろははうみのことを忘れてしまうことになる。
 その後、二人は付き合い出して、結婚することになる。そして子供を授かる。そこで、本論でも触れたように、しろははうみが生まれると同時に死んでしまうこと、そんな自分に会いにくるために、未来のうみは何度も過去に戻っていることを視てしまう。そして、その時に未来のうみに視線を向け、目が合う…。うみは全てを理解する。しろは自身も、自分がいない未来を受けとめれずに、過去に心だけ戻っていたこと、しろは自身も過去を繰り返していたことを。そして、そこから抜け出すには、しろは自身を救い出さないといけないと決意する。

 

〇Pocket編

 しろはを救い出そうと決意したうみ。七影蝶の姿となっていた彼女は他の七影蝶の力を借りて、七海という姿となって子供時代のしろはに会いにいく。しろはは子供のころに両親をなくしており、その悲しみから過去に戻る力が発現してしまっていた。そして、そのことが羽衣里と引き合わせ、羽未を出産し、死んでしまう。そのために、七海は子供時代の悲しい夏休みを楽しい夏休みに変え、過去に戻る力が発現しないように奮闘する。そして、七海のおかげで、しろはは楽しい夏休みを過ごす。だが、しろはは母親との思い出を思い出してしまい、過去に戻って、母親に会いに行こうとしてしまう。それを止める七海。そして、思い留めさせるために、しろはに未来の楽しい出来事を見せる。それを見たしろはは過去に戻るのをやめる。しろはの過去に戻る力は発現しなかった。しかし、過去に戻る力を得ないしろはの未来とというのは、羽未が存在しない未来とも同義であった。結果、七海の体から、どんどん七影蝶が溢れ出行く。そして、消えようとしたときに、しろはに未来のしろはが乗り移り、「羽未ちゃんなの…?」と七海に尋ねさせる。その瞬間、七海の姿が羽未に変わる。消えるのを阻止しようとするしろは。しかし、自らの存在を消すことで、しろはを救った羽未を止めることは出来ない。そして、羽未はしろはの子守歌の中で消えていく。
 そこで、話は羽衣里が島に訪れた場面に変わる。しかし、羽衣里は島の誰とも関わらずに、過ごす。その世界では、藍も眠っておらず、鴎も入院しておらず元気で、紬も自らの生を生きている。また、しろはも蒼たちと共に過ごし、夏休みを楽しんでいる。全てのヒロインが救われ、幸せな世界。まさに羽未が語った絵本の世界。最後、羽衣里を見送る鏡子は「これでよかったんだよね。瞳…」とつぶやく。この鏡子というのは、羽衣里の母親の妹で、羽衣里を祖母の遺品整理のたために、鳥白島に呼び寄せた張本人である。全てのことを知っているらしく、うみを羽衣里に紹介する時も「はとこだよ」と嘘をついていた。また、しろはの母親である瞳の友達で、おそらくしろはを助けるために、その身をすて、七影蝶となった瞳の意志を引き継いでいたと思われる。だから、『サマポケ』はしろはという一人の少女を救うために、母親と子供が自らの命を捨て、救う話でもある。
 だが、本論でも述べたように、ラスト、羽衣里はしろはに声をかける。羽未がいなくなったことで、救われた仮初めの幸せを拒んで。

 以上が各ルートに関しての、感想と考察である。長くなってしまったが最後にまとめを述べて、終えたいと思う。

 

〇まとめ

 夏をテーマとしており、その事が非常に作品を素晴らしいものにしている。夏をテーマにした作品と言えば、『AIR』然り、『新世紀エヴァンゲリオン』(意外に思われるかもしれないが、季節はずっと夏である。)、『涼宮ハルヒの憂鬱』の『エンドレスエイト』、細田守の『時をかける少女』、『イリアの空、UFOの夏』(しろはとの初対面でプールシーンというのは、この作品のオマージュであると思われる。)などである。どれも名作であると同時に、「セカイ系」というジャンルが夏という季節と深く結びついていることがわかる。
 また、『サマポケ』で重要なことが、「お盆」である。『サマポケ』の中に登場する七影蝶という亡くなった人の記憶を持つ不思議な蝶は夏になると、鳥白島に集まり、お盆が過ぎ、灯篭流しが行われると元の場所に還っていく。これが、『サマポケ』の独特の存在感を持たせている。なぜなら、『サマポケ』の重要な場面は日本の歴史で重要な出来事が起きた日付と重なっているからだ。例えば、各ヒロインと個別ルートに入っていく日付は8月6日である。8月6日というのは、ご察しの通り、広島に原爆が落とされた日である。また、各ルートの核心に入るのは、8月15日である。もちろん、8月15日というのは、日本の終戦記念日である。この事を、『サマポケ』はかなり意識して作られていると思う。「夏休み」と「記憶」がテーマになっている以上、日本では、「戦争」というのは避けては通れない。実際、蒼ルートで羽衣里は神隠しにあったされる紬の駆け落ち相手である灯台守の記憶をみるのだが、灯台守は紬が神隠しにあった後、すぐに戦争に行き、そこで命を落としてしまうのであった(ちなみに羽衣里が灯台守の記憶をみるのは、戦争が終わった翌日の8月16日である)。このように、『サマポケ』では、戦争に関係した描写が出てくる。これは、うみの記憶をみんなが忘れてしまったように、僕たちも「戦争の記憶」を忘れてしまっていることを示している。これは戦争を経験した人がいなくなっていることから、仕方がないといえば仕方がないのかもしれない。しかし、うみが犠牲になったことで島に平和が訪れたように、戦争で犠牲になった人たちがいることで、今の平和(これに疑問がある人もいるだろうが、少なくとも日本は戦争をしていない意味において)があるのではないだろうか。僕たちはやはりそのことを忘れてしまってはいけいけない。少なくとも、「記憶」はなくとも「思い」だけは。今年、亡くなったアニメーション監督の高畑勲が手掛けた『かぐや姫の物語』のラストで、地球での記憶を消されたかぐや姫が月に帰るときに、記憶がないにも関わらず、地球を振り返って涙を浮かべたように。『サマポケ』のラストで羽衣里が過去の記憶の集積ともいうべき倉庫の中で、うみとしろはと作った紙飛行機を見つけて、うみとの記憶はないにも関わらず、うみへの「思い」だけは思い出して、最後、帰る船から飛び降りて、しろはに声をかけたように。しろはが懐かしい思い出を振り返るように、遠い空を眺めるように…。